また開く花のように

7章

福祉施設で働きはじめて一年が経ち、職場までの坂道に赤と白のハナミズキが交互に花を咲かせていたとある休日。家を出て九年ちかく経つ兄が、婚約者を連れてくるというので、以前に比べれば客の減った我が家もひさしぶりに活気付いていた。

母は、朝から、食卓に並べる品々の名を連ね、「これでいいわよね」と、父ばかりか全く相談相手にならぬ私にまで意見を求め、父は父で、「ビールはたりるかな」「ジュースもいるな」と冷蔵庫を開けてはコンビニに出かけたりと、ともかく落ち着かなかった。

そして、私はといえば、一年早かったなら貴重な休みを邪魔されることに腹を立て遊びに行ってくるなんて言い出していたかもしれないが、精神的に余裕があったのだろう。無関心をよそおいながらも、兄がどんな人を連れてくるのか楽しみにしていた。

約束の十二時を十分過ぎてベルが鳴ったのを覚えているのも心待ちしていた証拠なのだが、「来たぞ、来たぞ」と、父母がせわしなく玄関に出ていってもソファーから立ち上がりはせず、彼女が居間に入ってくるのをじっと待った。兄が連れてくる女性だ。地味な大人しい人に違いない。「はじめまして」というか細い声を聞き逃すまいと私は耳をすました。

しかし、ドアが開く音とともに聞こえてきたのは、「こんにちはー」という明るすぎる声、そして、その声は言った。「なつかしー」と。

なつかしい? 何が? 疑問符が浮かんだだけで答えをさがす時間はなかった。

「よくいらっしゃいました、友ちゃん!」うれしそうな父の言葉に、私は大口を開け、声を出さずにえーっと、叫んでしまった。

「俊は?」

「コンビニで買い物してくるから、先、行っててって言われて……」

「あいつ、ビールでも買いにいったかな。たくさんあるのになー。まぁ、いいか。さぁ、あがって、あがって」

「失礼しまーす」居間のドアが大きく開き、父の後ろから彼女の顔がのぞくまでの長かったことといったら。

「綾ちゃん!」あの年齢であんなになつかしそうに私の名を呼んでくれる人といったらあの人しかいないから、私も、

「と、ともちゃん?」と、言うには言った。けれど、「そうよー!」と、言って微笑む彼女は、大口を開けて泣き、転げまわって笑い、猿のように木をよじ登っていた昔の友ちゃんではなかった。着古したトレーナーを見兼ねたのだろう友だちがくれた花柄のブラウスを着てはいたが、化粧もしていなければ髪もぼさぼさの私と違って、彼女はこの世で一羽きりのあでやかな蝶へと変身していた。

間もなく兄もやってきて皆で食卓を囲んだが、アップした髪をゆらし、もともとは少し上がった目尻をくいっと下げて笑う彼女の周りはあきらかに空気が違っていた。色気むんむんとか、顕示欲が強そうというのとは違って、肉体の内側に宿る生命の源が、他の人より力強い確かな光を放っている、そんな感じだった。

もっとも、あの日の私には、あの美しさを観賞するだけの余裕はなかった。

年賀状やクリスマスカードをもらっても返事は出さず、おばさんの見舞いにも葬儀にも、初めての個展にも行かず、もう自分の人生には関係のない人だと思っていたかつての隣人、そんな彼女がいきなり兄の婚約者として目の前にあらわれたのだ。無視していただけでちゃんと罪悪感もあったぶん私の動揺は大きかった。

逆の立場だったら間違いなく根に持つだろう、そんな思いから「綾ちゃん、変わってないねー」と、なつかしそうに話しかけられても緊張が解けず、ともかく早いところ酔っぱらってしまおうと、私はぐいぐいビールを飲んだ。

「お父さん、どうしてお兄ちゃんの結婚相手が友ちゃんだって教えてくれなかったの?」友ちゃんの前でそう言いだせたのもアルコールがまわってきたから。

「なんだ、おまえ知らなかったのか?」と、すまして言ってから父はニヤリと笑った。

そして、友ちゃんは、

「いやだ綾ちゃん、俊ちゃんからも何も聞いてなかったのー」と、驚いた声をあげた。

もし、私も再会を楽しみにしているものと勘違いしていたなら、彼女はショックを受けていたかもしれない。それでも、ほとんどやけになっていた私は、

「そう、全然知らなかったー!」と、大きな声で叫んだ。

すべてがそんな感じ。

ひさしぶりに再会したかつての隣人、そして、未来の義姉をもっと誠実に歓迎できなかったものかと悔いが残るが、もしかすると、私の不義理や投げやりな態度などは友ちゃんにとってみればたいしたことではなかったのかもしれない。

「遠い祖母の家まで何度もきていただいて、私のほうからも、もっと早くご挨拶に伺おうと思っていたのですが……ここは思い出がいっぱいありすぎて……」以前は自分の家が見えた窓をみつめ言っていた友ちゃん。彼女は私と違って、わぁーと泣くことはあっても尾を引いたり思い悩んだりすることはないのだろうと勝手に思い込んでいた。しかし、もしかしたら私以上に繊細なところもあったのかもしれない。

「おとうさん、おとうさん」と、まとわりついていた彼女にとって父親の突然の死は想像以上に大きな出来事だったのかもしれないし、生まれ育った家を手放し親しい人たちと別れなければいけなかったことにも、たったひとりの家族である母親の死にも、私にはわからない深い痛みがともなっていたのかもしれない。

おじさんから絵を教わっていた父をふくめた数名の男性たちは、毎年秋になると彼の墓がある、友ちゃんたちの引っ越した町へと出かけていたが、私が一緒に行ったのは小学校五年のときだけ。そして、母も彼女自身や彼女の母親の体調がすぐれなくて行けなかったことが何度かあった。けれど、そんな時でさえ、兄は、我が家の代表であるかのように土産の心配をし、あたりまえのように、父と一緒に出かけていった。彼の中に友ちゃんと会いたいという思いがあったのは確かだろうが、もしかすると、友ちゃんも、私には見せぬ顔を兄には見せ、甘えたりなぐさめられたりしていたのかもしれないと思うとちょっとうれしい。

それにしても、引っ越していった友ちゃんが兄の結婚相手として我が家にやってくるまでに十八年という月日が経っているのはあまりに長い。

現役で藝大に入ると彼女は学校からそう遠くないところにアパートを借り一人暮らしをはじめ、彼女に一年遅れて私立の美大に入った兄も通いきれずに三年生になった時点でアパートを借りた。ふたりのアパートは東と西に離れてはいたが同じ東京。会おうと思えば会えなくはない。しかし、中高時代の彼等が家族に内緒で会うのは不可能にちかい。それに、大学の研究科を卒業してから友ちゃんは数年、ヨーロッパに留学している。

「ねぇ、いったい、いつから友ちゃんと本格的につきあいはじめたの?」と、今さら兄にはきけないからわからないことだらけ。

けれど、四十過ぎても「俊ちゃん」「友ちゃん」と、呼びあっていたふたりを思うと、十八年の間にそれぞれが違う誰かを好きだった時期があったとしても、そんなことは、私の失礼な態度と同じぐらいたいしたことではなかったような気もしてしまう。

何はともあれ、あの突然の来訪ののち、結婚式などの面倒な行事に参加することは一切なく、いつの間にか、友ちゃんは私の義姉となっていた。

ふたりが生活の場として選んだのは江ノ電沿線。鎌倉の駅からだって歩いていけなくはないのだから、同じ海の近くでも以前友ちゃんが暮らしていた家よりはずっと我が家に近い。でも、海外からも個展の誘いがかかるようになっていた友ちゃんも、大学時代から取り組んでいた人形作りで食べていきたいもののなかなかそうはいかず、先輩の工房で手伝いをしていた兄も目一杯だったのだろう。母の具合が悪くなるまで、彼らが我が家にやってくるペースは年一、二度だった。そのうち一度は大晦日で、みんなでワイワイと新年を迎え挨拶を交わしてから彼らは初詣にいくため帰っていく。そのぐらいのつきあいなら、かえって楽しいぐらいで苦にはならない。

もっとも、父や母は友ちゃんたちの誘いにのり鎌倉に何度も遊びにいっていたし、もっと関係を深めようとすればいくらでもできたわけだが、いきなり態度を変えるなんてやはりできなかった。

女性としても魅力的だし芸術家としても注目を集めていた友ちゃん。そんな彼女が義姉となっても、うらやみ卑屈にならずにすんだのは、福祉の仕事に就いて天職にめぐりあえたと思っていたから。

面接のとき、パン屋で働いていたとアピールしておきながら、相変わらずパン生地に異物が入るのではという不安が強く精神的に疲れそうなので、仕事を割りふられる段階で、紙パックからはがきをつくる作業の担当がいいと言いはり希望を通した。

事務仕事に手間取りひとり最後に職場を出るときは、火の用心や戸締まりに三十分以上の時間をかけていた。

それでも私は、中高時代の精神的に不安定なあの状態を見事に克服した自分だからできることがあると信じていた。

いや、やっと自分の仕事に巡りあえたと天に感謝することもあるにはあったが、本当に自信があったのかといえばそうではなくて、自己嫌悪の塊である自分に一生懸命暗示をかけていただけだったのだろう。

その証拠に、私は、職員のなかでひとりだけ運転免許を持っていないことが気になってたまらなかった。

確かに、「山瀬さんは運転できないのにどうして職員になれたの?」と、きく通所者もいたぐらいで、私が勤めたような小さな施設では車が必需品だった。パンや手工品を売りにいくときも、みんなでレクリエーションにいくときも、バザー用品を集めにいくときも車。職員は五人しかいなかったのだから、全員運転できるならそれにこしたことはなかった。

それでも、かなり不利になるとわかっていながら、面接の段階で運転だけはしたくないとはっきり言っていたのだから、私を一番責めていたのはやはり自分自身だったのだろう。

例の強すぎる恐れを抱えた私にとって車は凶器で、運転して人を轢かない可能性はおそろしく低く思えた。だから、運転するということは、罪を犯し交通刑務所に入ることを決意するのに等しかったのだが、自分の恐れを認めたくない私は、働きはじめて二年半が経ったときに教習所に通い免許を取ろうと思いたった。

教習所というと、「教官が恐くてさ」などという人がいるものだが、私にとっては自分以外に恐いものなどないのだから、彼らになんと言われようとさほど気にならなかった。もっとも、ともかくぶつけてはいけないと外に出てからもいきなりブレーキを踏むものだから、

「あなた、何しているんですか?! 後ろのトラックとの間がこれしかありませんでしたよ」と、両手でわずかな隙間を作り青くなっている教官もいたし、彼らにとって私は恐ろしい存在だったのかもしれない。

何はともあれ、教習生である間は、いざとなれば彼らがブレーキを踏んでくれるという安心感があったから、それほど緊張することもなく運転できた。

しかし、約三ヶ月かけて免許をとってからの日々は思い出すのも辛いほど悲惨だった。

同僚につきあってもらって何度職場の車で練習をしただろう。たぶん十回にもならないと思うが、何事もなく練習を終えられることのほうが余程奇跡に思えるのだから毎日毎日生きた心地がしなかった。

結局、免許をとって一ヶ月もしないで運転をあきらめたのだが、あの判断は間違っていなかったと今は思っている。

自分は事故を起こす、それが前提となってしまうがゆえの緊張の強さはものすごくて、運転席に座ると普通の精神状態を維持できない。そのうえ、恐れの強さ以上に認めたくないことだったが、瞬時に判断をくだし同時に車を操作していくということが、能力的に私には難しかったように思うから。

仮免は一度でパス、卒検は二度目でパスといえばまぁまぁのようだが、教官はなかなか先に進めてくれなかったから規定の倍は講習を受けたし、卒検のあとで

「一応免許はあげるけどね、あんまり運転しないほうがいいよ。近所迷惑だからね」と、まで言われた。プロにしてみれば私が運転に不向きなのは一目瞭然だったのだろう。

同僚に助手席に乗ってもらい練習したときも、車の多さにパニックとなり甲州街道でハンドルから両手を放し万歳をしてしまったり、曲がることばかりに気がいって直進車を無視して右折してしまったり。「大丈夫、大丈夫」と、言いながら隣からハンドルを握っていてくれたり、手をあげて直進車を制止しながら謝っていてくれたりした同僚も、さぞかし大変だったことだろう。

ある職員から「ともかくひとりで運転してみろ」と、命令されて職場の周りを一周したのが、唯一、誰にも同乗してもらわない運転だったが、工事現場に止まったトラックとガードレールに二度ぶつけ、車を修理工場におくったあの日のことは、今思い出しても恐ろしい。

「誰かと一緒なら運転できても、ひとりで走るのは難しいかもしれないな」事故の後始末をしてくれた同僚の言葉に同意して、もうやめようと決めたときは、二度と運転しなくていいように免許を返しにいこうと真剣に考えたほどだった。

それでも、もともと期待されてはいなかったのだろう。

私が悩むほど「免許とったんだから運転してよ」と、他の職員から要請されることはなかった。

私は、もう一度、「私には私のできることがある」と自分自身に言いきかせた。

しかし、代車を借りられたものの職場の車を修理工場におくってしまったことで、職員ミーティングの場でちくりちくりと責められたり、冷静さを失った状態で運転していた自分を思い出すたび、もしあの時、人を轢いていたらという恐怖でのたうちまわったり、そんな日々を送るうちに、私は以前の自分に戻れなくなってしまっていた。

まるで表面をおおっていただけの薄っぺらい自信にぽっかりと穴が開いてしまったかのように、「大丈夫、大丈夫」という暗示の言葉がきかなくなり、些細なことで動揺し、人の批判がひどく気になる。

三十歳になっていた私は、再び結婚退職を夢見るようになり、ある男性に的をしぼったが、それは、さらに感情の波を激しくするだけだった。

大学時代の失恋と同じく、後からやってきた女性に彼の心が傾いていくのを目の当たりにしたときは、自分がカンカンという音に引きずられ踏み切りに入ってしまうのではないかと恐くなるほど打ちのめされた。

世の中には彼女や友ちゃんのように明るくてきれいで自信にあふれ、何をやっても私よりうまくできる人もいるのに、どうして私は私なんかに生まれてきてしまったのだろう。

私だって捨てたもんじゃない、私だってやればできる、そう言いきかせてきた自分の中からマグマのような怒りが噴きだしてきた。

 

私は、私なんかに生まれてきたくなかった!!