また開く花のように

13章

父の通院に付き添うため休みをとっていたあの日も、朝早く起き、パソコンを開き、行動を起こさなければ何も変わらない。今日こそ、この職場に電話をしてみようと決意をかため、それから、一階におりた。

神経内科の予約は十一時半。出かけるまでにはまだまだ時間があったが、まずはゆっくり朝食をとるつもりだった。

しかし、居間のドアを開けると奥の座敷から、また、

「綾子、綾子」という父の弱々しい声が聞こえてくるではないか。

「どうしたのお父さん?」

「胸が苦しいんだ」

「大丈夫? 救急車よぼうか?」

「いや、その必要はない」

「じゃあ、もうすぐ病院が開くから先に内科を受診する?」

「ああ」

大丈夫だ、神経内科の先生に相談してみるとは言わなかったのだからかなり苦しかったのだろう。

幸い、病院は歩いたって十分とかからない距離。タクシーならあっという間。トレーナーの上下のまま病院に着いた父は、車椅子に乗せられ、血圧を測ったり心電図をとったり。でも、特に異常はみつからなかった。

あの夏はともかく暑くて、六月だというのに寝苦しい夜が続いていたから、それで体調をくずしたのではないかと今では後悔している。しかし、暑さ寒さの対策ぐらい当然ひとりでできるものと思っていた私は、異常なしとわかったとき、ほっとすると同時に、しっかりしてよお父さんと、心の中でつぶやいていた。

だから、医者が

「検査のためしばらく入院しますか?」と、言い出したことは予想外だったし、父が、

「はい、お願いします」と同意したのにも驚かされた。

けれど、私が気づいていなかっただけで、あの時、彼には、ひとりで頑張る限界がきていたのだろう。一階でベッドが用意されるのを待つ間中、車椅子の上でじっと目をつぶっていて、入院する必要ないんじゃない? なんて、とても言えない雰囲気だったし、ようやく病室に連れていってもらえると待っていたかのようにベッドの上に身を横たえた。

「綾、すまないが、神経内科の先生から結果きいてきてくれよな。もし、言いにくいことがあったら言わなくていいから。来週にでも自分でききにいく」そう言ってから、ニヤリと笑うだけの余裕はあったが、毛布の上からだと、彼の身体がますます小さくなってしまったようにも思えて、これからの検査によって悪性の腫瘍でもみつかってしまうかもしれないと不安になった。

朝一番で受診した内科と神経内科は同じフロア。看護士を通して、私が一人で結果をきくことはすでに了解をえていたので話は早い。

一週間、父を見てきたが、脳梗塞を起こしたとは思えないし、問題があるとしても、やはり頭ではないだろう。

私はMRIをながめる医者が

「特に問題ありませんね」と、言うのを待った。

ところが、彼はなかなかそう言ってくれなくて、ようやく口を開くと

「この部分、脳幹なんですけどね、ここにかなりの萎縮がみられますね」と、難しい話をしはじめた。もちろん、素人の私がMRIをのぞきこんでも正常かそうでないかなんてちっともわからなかったし、一番大きな大脳ならともかく、そんなところが萎縮しているからってだからどうなの? と、いう感じでしかなかった。

それは、医者が、生まれてから一度も耳にしたことのない病名をあげ、それにほぼ間違いないと言いきったときも同じで、どんな病気か知らないのだから反応のしようがなかったし、名が知られていないのだから大した病じゃないような気がした。

だが、

「バランスが悪くなり、転倒しやすくなるのが特徴のひとつなんです」と言われたときは、さすがにどきりとした。

「あります。朝、私が起きてきたら、父が床に転がっていて起きあがれなくなっていたことがありました」

「ええ、手で身体を支える余裕もないぐらい、パタンと、時には後ろに倒れることもありますから、頭を打ったり骨折したりする危険性も高いんです。

人によってかなり差がありますが、進行性の病で、いずれは歩けなくなるケースがほとんどですし、飲み込みに問題が生じ肺炎を起こしたりして数年で亡くなる方も多いです」

数年で亡くなる?

患者やその家族に、一般的に知られていない病の恐ろしさを伝えるというのは、医者としても難しいことなのだろう。彼がさらりといった言葉は、私をゆっくり打ちのめしていった。

「胸が苦しいと言ってさっき入院したのですが、関係あるでしょうか?」

「いや、それはないと思いますよ」

「私も昼間は仕事にいっていますし、今はすべて自分のことは自分でやってくれているのですが……」

「うーん、これだけ、萎縮が進んでいますから、一人だと立ち上がるのもきびしいように思いますが……」

「いずれ、一人にしておけなくなるときがくるでしょうか?」

「その可能性は非常に高いですね」

ボーッとした頭で診察室を出たが、エレベーターの前に立ち、父の病室にもどらなければいけないと気づいたとき、悲しみがどっと込み上げてきた。

のろまだろうが、不器用だろうが、厄介な病にかかりおかしな行動を繰り返そうが、嫁にいかなかろうが、定職につかなかろうが、それでも無条件で愛してくれる人なんてお父さんしかいない。そのお父さんがいなくなってしまう……。

彼に二十四時間付き添わなければいけなくなる日がくることはそれほどショックではなかった。それよりも、彼がひとりで病と戦ってきたことが悲しかった。

エレベーターが開く直前、乗っている人に涙を見られるのがいやで、私は、横の階段にまわり、一階へとおりた。

医者に言われたことをお父さんに言うことなんてできないよ。どうしよう、お兄ちゃん?!

携帯電話を家においてきたため、公衆電話の受話器を持つと、三年間自分からかけることのなかった兄の家の番号を押した。

どうかお兄ちゃんがでますように、心の中で祈っていたのだが、十回ちかい呼び出し音の後で聞こえてきたのは、彼ではなく友ちゃんの声だった。

「はい、山瀬です」聞こえぬよう溜め息をついてから、元気?の一言もなく

「友ちゃん、お兄ちゃんいる?」と、きく。

「綾ちゃん、ひさしぶりー! 俊ちゃん、今、名古屋いってて明日帰ってくるんだけど、ねぇ、お父さんも、綾ちゃんも元気?」少々スローで声が大きいが、それでも以前とそれほど変わらぬ調子にほっとして、かかわりたくないと思っていた彼女に打ちあける。

「実はさ、お父さんが入院しちゃったんだよ」

「えー、どうしたの?!」

「いやね、胸が苦しいっていうから受診したら特に問題なかったんだけど、もうすぐ八十じゃない、入院していろいろ検査してみましょうっていうことになっちゃったんだよ」

「ああ、そう。じゃあ、俊ちゃん、今日中にもどってきてもらったほうがいいかな?」

「いいよ、いいよ。今日、あわてて帰ってくることはないよ。でもね、実はさ……」

「え? どうしたの?」

「いやね、お父さん、一人で神経内科いって頭のMRIとってきてさ、今日二人で結果ききにいくつもりだったんだ。それなのに、その前に具合悪くなっちゃったでしょう。それで、私ひとりで結果ききにいったんだけど……」

「うん」

「脳幹が萎縮しているらしくて、進行性の命にかかわる病気だって言われちゃったんだ」

「お父さんには話したの?」

「まだ。今、先生からきいたばかりでさ、どうしたらいいかお兄ちゃんに相談してみようと思って電話したんだ」

「そう、俊ちゃんの携帯番号知ってる?」

「携帯、家においてきちゃって、今、わからないんだ。教えてくれる? ちょっと待ってメモするから……はい、お願い」

「090-○○○○―△△△△」

「090-○○○○―△△△△だね。わかった。有り難う」

「ねぇ、私、これから病院に行くよ」

「ええー、大丈夫なの?」

「大丈夫、今、急いでやらなきゃいけないことないし。M病院だよね?」

「うん」

「そしたら、三時には着くから。病室は?」

「三〇五」

「わかった。じゃあ、後でね」

不思議なものだ。どうぞ友ちゃんが電話にでませんようにと祈っていたというのに、彼女がきてくれることになって心底ほっとしたのだから。

父さんだって、彼女が来ると知ったら大喜びして、私が検査結果をききにいったことなど忘れてしまうかもしれない。私は、兄の携帯に電話するのも後にして、父の病室にもどった。しかし、昼食をとったのだろう彼は、スースーと寝息をたてていたため、これ幸いと、看護士さんに用事があるから三時にはもどると言いのこし、病院から抜けだした。

外の空気を思いきり吸うと急にお腹が空いてくる。考えてみれば、朝のドタバタで朝食もとっていないではないか。

コンビニでお弁当を買ってかえりテレビをみながらゆっくり食べて、入院に必要な品々をそろえたら、あっという間に二時半ちかくになっていた。

友ちゃんより先に病院に戻ってなきゃなと、近所の店で足りなかった物を買いたしながら病院へと向かう。

六月だというのにやけに暑い日で、空は真っ青。その空の下、向こうから、遠くからでもわかるほど太った女性が歩いてくる。自分だって痩せているとはいえないのだが、あの体形では、この暑さ、かなりきつかろうと、私は勝手に想像する。

ところがだ、顔から汗が噴きだし、肩で息をしながら歩いてくるものと思いきや、近づくにつれそうではないことに気づいた。

小花模様の長いスカートをはいた彼女は、まるで時々吹いてくる心地よい風を全身で感じ楽しんでいるかのように、軽く両手を広げ遠くの空をながめながら歩いてくる。その顔はなぜとききたくなるほど無邪気で幸せそうで、何らかの障害がある人か、あるいは天と交信する人か、そのどちらかかと思った。

不思議な人だ。心の中でつぶやきながら十字路を左に曲がろうとしたその時だった。

空を見ていた彼女の視線が下がってきて私とぶつかり、そして、彼女はにっこりと笑った。

「と、ともちゃん?!」失礼だったかもしれないが、私は思わずきいていた。

「そうよ、綾ちゃん、ひさしぶり」四十二とは思えないほど、笑顔は愛嬌があって可愛いといえば可愛かったし、南の国のどこかには彼女のような女性を絶世の美女とするところもあるような気がした。けれど、日本人である私は、スタイルのよかった彼女があまりにも太ったことに、ともかくびっくり仰天してしまった。

兄の婚約者として私の前にあらわれたとき美しい大人の女性へと変身していたことにも驚いたが、あの時以上だったように思う。

正直、父が友ちゃんとわかるだろうかと心配になったほどだった。

でも、それは杞憂だったようだ。

六人部屋である父の病室にいき窓際のベッドをのぞきこむと、彼の目は私たちの方へと動き、そして、顔をくずした彼の口から

「ああ、友ちゃん」と、本当にうれしそうな声がもれた。
なんだ綾、検査入院なのにわざわざ電話かけたのか? すまなかったね」

「私の方こそ、長い間、心配かけちゃってごめんなさい。もう大丈夫ですから、私にできることがあったら何でも言ってくださいね」

そう言った友ちゃんだったが、変わったことといえばただ太ったことだけ、というわけにはいかなかった。

たとえば、彼女の携帯がメロディーを奏ではじめたときのこと。私が、

「病院では電源を切らなきゃいけないんだよ」と、注意すると、なんと友ちゃんは一度も電源を切ったことがないらしく、

「電源ってどうやって切るの?」と、きいてきたのだ。ところが、私の携帯は、お年寄りでも使える一番シンプルなもので電源と書いてある大きなボタンを押せばいいだけだったが、彼女のは違っていて手におえない。

「わからないや」と、言うと、

「じゃあ、ナースステーションいってあずかってもらってくる」と、すたすた病室を出ていってしまった。ちょっとしてから、

「看護婦さん、電源切ってくれた」と、うれしそうにもどってきたが、私はとても恥ずかしかった。

そんな以前の彼女なら考えられぬ言動が何度かあったわけだが、それでも、父の表情がくもることはなく、ふたりはとても楽しそうに会話を交わしていた。

もし、三年という月日が経っていなければ違ったかもしれないが、父の夕食がすんでから帰るつもりでいたもののMRIの結果をきかれるのが恐い私は、一方的にしゃべりつづけるわけでもない友ちゃんが少しでも長くいてくれたらいいなと思っていた。

ところが、夕方の四時になると、父の方から

「綾も友ちゃんとひさしぶりに会ったんだろう。父さん、病院じゃ困ることないからもういいよ。二人でお茶でも飲んだらどうだ」と、言ってきた。たぶん、あまり遠出をすることもないと思える友ちゃんを気づかったのだろうが、彼女は全く苦でないらしく、

「そうそう、忘れてた。家を出るちょっと前に俊ちゃんから電話があったんだった。明日夕方ここに顔を出すって言っていましたから、私もまた来ますね」と、にこにこしながら父に言った。

 

それから病院を出た私たち二人は、急行の止まる駅までぷらぷらと歩いていき、イタリア料理店に入った。

太った友ちゃんは、動きもしゃべりもとてもマイペースで皆の注目をあつめそうだったから、私はちょっと恥ずかしかったのだが、ひとり悶々とこれからのことを考えるよりは彼女と一緒にいたいと思った。

「薬、飲んでいるし、私はあまり飲めないんだけど、綾ちゃんは飲んでね」そう言われたら遠慮すればいいのに、私はグラスワインの後でさらにビールを注文し、グイッと飲んだ。

目の前でおいしそうにスパゲティーを食べている友ちゃんは、時々、紙ナプキンで拭くものの口元がトマトソースで赤くなっている。

美しくはつらつとしていた友ちゃん。画家、染野友の外見に惹かれていたファンも多かったことだろう。もうかなりの枚数が描けているのに次の作品展の予定は立っていないと父に言っていたが、もしかしたら、以前、彼女を高く評価し応援していた人たちも、皆、離れていってしまったのかもしれない。そんな想像から、より親しみを覚えたのとアルコールのせいだろう。私は、事故にあうまえの彼女にだったら言わなかっただろうことを打ちあけていた。

「実は、私さ、新しい仕事をさがしていたんだ」

「何かやりたいことがあるの?」

「違うよ。私ね、友ちゃんたちがうちの隣りから引っ越しちゃってすぐ、まだ小学生のときに、強迫神経症っていう病気になっちゃったんだけど知ってる? 手にばい菌がついているような気がして何度も洗ったり、火の元の点検を繰り返したりする病気なんだけど」

「うん、わかる」

「大学入ってから、いかにも病気っていう症状は消えたんだけど何やるにしても不安が強くてさ、楽になりたいってそればかり考えているうちに四十になっちゃってさ。恥ずかしいけど郵便局のバイト代なんて微々たるもので、経済的に全然自立できてないし、貯金もないし、これじゃあいけないってようやく気づいてさ」

友ちゃんは私をみつめているだけで何も言わない。しゃべってますます自分のことが情けなくなった私は、また、ビールをグイッと飲んだ。

「ねぇ、綾ちゃん」彼女の声がしたのは、テーブルにおいたグラスの中をのぞきこんでいたとき。

「なに?」

「前にくらべればずーっとすっきりしたんだけど、それでも、まだ私には見えるんだよ」

「え、なにが?」

「頭の周りにね、ああじゃなきゃいけない、こうじゃなきゃいけない。ああだからこうだ、こうだからああだっていう思い込みがもやもやとさ」

「本当に見えるの?」

「うん」友ちゃんは大きくうなずいた。

「このもやもやが、もっと消えたら身体も心も楽になるのにね。綾ちゃんは綾ちゃん、人と比べることなんて何にもないんだよ」それから、彼女は手を伸ばしてきて私の頭の周りにあるらしい何かを一生懸命払おうとした。

けれど、うまくいかなかったのだろう。彼女は話題を変えた。

「ねぇ、アロマを学びたいって、言っていたよね」

「ああ、そう言っていたときもあったよね」

それはすでに四年も前のこと。美術学校を卒業し、母も亡くなり、いよいよ働かなければいけなくなったものの、自分ができる仕事もやりたいと思う仕事もみつけられず暗澹たる気分になったとき、私は、画家に続いてアロマセラピストになりたいという無謀な夢に逃げ込んだ。おそらく、その時、友ちゃんにも話をしたのだろう。しかし、ボディーワークを受けて、自分の頭の状態が正常ではないと気づいてから、日に日に、それが、感情的な問題や処理能力ばかりか強迫神経症にも関係していたと確信するようになっていった私は、身体について学びたいという思いは確かに強かったが、じゃあ、本当にアロマセラピストになり今より収入を増やせるかといえば全く自信が持てなかったのであきらめた。

それでも、ボディーワークのなかでもっとも学びやすそうなアロマへの関心が消えたわけではなかった。だから、友ちゃんに、

「ずっと前に絵をみにきてくれて知り合ったんだけどね、今じゃ、マッサージの予約もなかなかとれないほどのセラピストさんが学校開いているんだけど、どんなものか初級講座だけでも受けてみない?」と、言われたときはちょっと心が動いた。

でも、父の病気を知り、新しい仕事探しも中断しようと決めた自分に、そんな贅沢をさせるわけにはいかない。

「私、絵だってあんなに学校通ったのにもう描いてないし、また無駄になっちゃう気がするから……」

すると友ちゃんは、子供の頃ならともかく、蝶のように美しかったときなら絶対に言わなかっただろうほどずばりと言いきった。

「もう、綾ちゃんて、ほんと頭かたいね!」あまりの勢いに、言われた私も笑ってしまったほどだ。

「初級はさ、半分、遊びなんだから少しでも関心があるなら難しく考えることなんてないんだよ。待って、パンフレット持ってきたんだった」彼女は大きな鞄の中をがさごそと長い間かきまわしてから、「あった」と、満足そうに言った。

「えーと、火、金の夕方六時からっていうのがあるよ。七月十三日から全部で八回。そうだ、綾ちゃんが帰ってくるまで、私が家でお父さんと一緒にいるから、バイト終わってからどこかで食事していけばいいじゃない」

「それじゃあ、大変だよ」

「大丈夫、おじさんには本当にお世話になったんだしさ。そうだ、その日は泊めてもらって、夜中、お父さんがトイレいきたくなったら私が手伝うよ。料理はへたくそになっちゃったから作れないけど買えばいいもんね。翌日も、一緒にお昼食べてから帰れば、火、水、金、土は、綾ちゃん、安心してバイトいけるでしょう?」

「うん……ところで、講座っていくら?」

「心配しないでよ。やりたいことがあるなら応援させてよ。ここに名前や住所書いて。私がFAXして代金払い込んでおくからさ」

勢いに押され申し込み用紙に記入すると、彼女はそれを手にしてから言った。

「私ね、これからは俊ちゃん以上に綾ちゃんにお世話になるような気がするんだ」

「そ、そうなの?」笑いながら返したものの、兄はせっせと人形を作り、歩けなくなくなった父と、少し調子のはずれた友ちゃんの面倒を私ひとりがみるという未来が頭にうかび、それだけは勘弁と心の中でつぶやいた。

それでも、お腹いっぱい食べて飲んでした代金のすべてをも友ちゃんが払ってくれたあの夜、何も思い悩むことなくぐっすり眠れたのは間違いなく彼女のおかげだったのだろう。

検査入院は十日間。内科的な病はみつからなかったが、その間、父は、兄と一緒に神経内科を受診して自分の病のことを直接医者からきいた。それでも、病室が重苦しい空気に包まれることがなかったのも、特に何をするわけでもなかったが、ほぼ毎日のように病院に顔を出してくれた友ちゃんの存在がやはり大きかったのだろう。

しかし、私が彼女のことをすっかり信頼できたかといえば、そうもできない事情があった。

あれは、バイトが休みで午後二時頃病院にいったときのこと。

ちょうどお昼寝タイム。三〇五号室に入るとあちらこちらから寝息やいびきが聞こえてきて、お舅さんに付き添っていた年配の女性と目で笑いあったほどのどかな時間が流れていた。

私は足音をしのばせ、奥へと進んだが、もっとも大きなクーカーといういびきがカーテンで囲まれた父のベッドから聞こえてくることに気づいたときは、思わず、

「あらら」と、声を出してしまった。

笑いながらそっとカーテンを開け中をのぞくと、なんと眠っているはずの父と視線がぶつかった。それじゃあ、一体? 視線をずらすと、パイプ椅子に大きなお尻だけ残し、万歳までして父の布団の上に突っ伏した友ちゃんが、病室中に響いていたあのいびきをかいて熟睡しているではないか。

「と、ともちゃん」あわてて起こそうとした私を、

「起こすな」と、父の小さいが強い声が制した。

あきれはて焼き餅をやく気にもならなかったが、自分の方を向いた寝顔を枕の上から覗きこむ父の目はとても優しく、私は彼の言葉に従い、友ちゃんの隣りにパイプ椅子を広げて座った。

ふと目に入ったのは万歳をした友ちゃんの手。洗っても落ちなかったのだろう。指先は絵の具で染まっている。昨日も遅くまで描いていたのだろうか。鎌倉から毎日この病院に通うだけでも疲れるだろうに。

父ほどではなかったにしろ、私もまた友ちゃんをいとおしく思った。

しかし、病室に看護士が入ってきてカーテンの外があわただしくなると、彼女はようやく目を覚まし、

「ああ、寝ちゃった」と、言ったあとに、

「お昼ご飯の後で間違えて眠剤飲んじゃった」と、付け加えた。

飲むなよ、私は、目をこする彼女を横目でにらんだ。

 

そんなこんなで、もしかしたら面倒をみる人が二人に増えるかもしれないという不安がぬぐえず、バイトを週六日から五日に変更してもらい、月曜日、父の通院に付き添えるようにしたり、電動式の介護ベッドを借りたりと、退院後、自分ひとりで彼の世話をするための準備を進めた。入院する少し前まで、バイトから友達と飲み屋に直行して、父を夜遅くまでひとりにいておくこともあったのだから、一ヶ月ぐらい、友ちゃんに頼らずとも乗り切れるだろう、そんな気もしていた。

しかし、退院の日から数日バイトを休み父に付き添った私は、あっけなくこれは無理だと白旗をあげた。

たかが十日間の入院でも、私に心配かけまいと精一杯頑張ってきた父には長かったのだろう。

私が近所に買い物にでかけた数十分の間にトイレにいき、あやまって手前のドアから三十センチほど低くなった風呂場の床に転げ落ち、ばったり倒れて動けなくなっていたときには悲鳴をあげてしまったし、数日だけはと父の隣り、ソファーの上で寝たところ、夜中三度もトイレに行きたいと起こされ、すっかりリズムが狂ってしまった。

「アロマの講座がはじまる前の週から火、金は泊りにいくから」と、言ってくれていた友ちゃんは、私の曖昧な返事などまるで気にしていなかったようで、月曜日の夜には、

「お父さんを起こしちゃうといけないから、合鍵持っていって、勝手に入らせてもらうね」と、電話をくれた。

翌日は、退院後はじめてバイトに行く日。アロマの講座がなくとも父のことが心配だったから、昼頃には家に来てくれるという彼女の言葉にまたまた救われ、こうして週二回、友ちゃんが我が家に泊るというにぎやかな日々がはじまったのだった。

 

父の退院の日、彼が乗った車椅子を押す友ちゃんのサンダルのかかとが高く不安定だったため、私が注意したからだろう。アロマの講座を受け、夜九時頃家に帰ると、玄関には灯りがついていて、そこには、友ちゃんの赤いズックが並んでいた。そして、眠り込んでいないかぎりは、「おかえり」と、彼女自身も玄関まで出てきて笑顔で迎えてくれた。

病室でいびきをかいて寝ていたことを思えば、呼ばれて目を覚ますか甚だ疑問だったが、父のベッドを設置した居間の隣り、奥の座敷に、襖をはさんで互いの頭が二メートルと離れないよう布団を敷き

「これで大丈夫」と、言っていた友ちゃんに甘え、火、金の夜だけは二階の自分のベッドでぐっすり眠らせてももらった。人一倍睡眠の必要な私にとって、それは大きなことだった。

そして、もうひとつ大きかったことといえば、あの一ヶ月の間に、お洒落の楽しさを教えてもらえたこと。

「ねぇ、綾ちゃん、私、太っちゃって着れない服がたくさんあるんだけど、着てくれる」そう言った次のときから、彼女は大きな鞄プラス紙袋にいっぱいの洋服を詰めて我が家にやってくるようになった。

「服だって、思い込みが強すぎると、自分にぴったりなものを見逃しちゃうからもったいないよ」そう言って、彼女は次々と私の顔に洋服を合わせていくのだが、確かに、自分では絶対買わないような意外な服が私を引き立ててくれるのには驚いた。

化粧も教えてもらったし、友ちゃんは、太っても最高のファッションアドバイザーだった。

けれど、不思議なもので、彼女自身のファッションは、私などには全く理解できぬほどぶっ飛んでしまうことがたびたびあった。

 

退院したばかりのときは、このまま二十四時間、介護が必要になっていくように思えた父だが、日が経つにつれ落ち着き、ケアマネジャーや業者さんのアドバイスでそろえた介護用品を上手に使いこなせるようになり、転ぶこともなくなった。

残業がなくバイトから早く帰ると、彼は大概パソコンに向かっていて、また仕事をはじめたのかと思うほど真剣な顔をしていた。

通所施設の見学にいきたいと言い出したのも、たぶん、私や友ちゃんに負担をかけたくないという思いからで本意ではなかったのだろう。

けれど、あの時の私には、それがわからず、独りの時間が長くてぼけでもしたら大変だと思ってもいたから、さっそく、家から一番近い通所施設に電話で見学のお願いをした。先方の都合と私がバイトを休める日ということから金曜日の午後に決まったのだが、たまたまその日は、友ちゃんが夜、友達の出版記念パーティーに行くとかで、昼過ぎには来てくれるものの、夕方からは、兄とバトンタッチして父をみてくれるといっていた日だった。

忙しくてなかなか我が家に顔を出せぬ兄はその日ならとはりきっていたから、アロマの講座のために来てもらうとしても、私がバイトを休み父と出かけるのであれば、友ちゃんにわざわざ来てもらう必要もない。

そこで事前に電話をいれたのだが、

「もし、お父さんが通うようになったら私がお迎えにいくこともあるだろうから一緒に行くよ」と、彼女は言った。家から一番近い施設といっても少々距離があるから、通うことになったら送迎してもらうつもりでいたのだが、行く気満々なのにことわる理由はない。昼食をとってくるという彼女を待って三人で見学にいくことになった。

 

節電のため冷房の設定温度を二十八度以下には滅多にしない私だが、耐えられず下げたほど暑い日だった。

これじゃあ、車椅子に乗っていたとしても父が暑さでまいってしまう。タクシーの後ろに車椅子を載せてもらって施設まで行ったほうがいいと私は考えていた。

けれど、父は暑さなど全く気にならない様子。三人で出かけるのがうれしいらしく、

「施設見学はまた今度にして銀座にでも行くか」と、言いながら、自分で服を選び早々に仕度をすませていた。

十二時半に来ると言っていた友ちゃんだったが、十二時少し過ぎ、私たちがまだ食事をしているときに玄関のベルが鳴った。

私は、彼女がいつもしてくれているように、玄関に出迎えにいった。

「いらっしゃい」そう言いながらドアを押す。しかし、ポシェットをのぞきこみ一生懸命、鍵をさがしている彼女の姿を見た瞬間、ぎょっとしてしまった。

結ばずにおろした髪は金色。タンクトップから突き出た太い腕の片方には、実際にはシールだったのだが、刺青のような蝶が。そして、一番驚いたのはタンクトップとアジアンチックな長いスカートの間に満月のようなお腹がのぞいていたこと。

「鍵がみつからなくて」ポシェットから顔を上げた友ちゃんは、私を見てほっとしたように笑ったが、たとえ我が家で着替えてから施設の見学に行くつもりでいるとしても、彼女がこの格好で電車に乗ってきたということがショックで、口がきけない。父に見せるのも気の毒に思えたが、私は無言で居間に戻った。

案の定、私の態度がおかしいと気づかない友ちゃんは、後ろから、

「こんにちはー」と、陽気な声をあげて入ってきた。

私は横目で父の反応を見ていたが、なんと彼は、実に楽しそうに笑ってから、

「友ちゃん、今日は山本リンダみたいだね」と、言ったのだ。

(な、なにが山本リンダだ!)私には、なぜ彼が笑っていられるのか全く理解できなくて、

「今日は、施設見学でも銀座でもなくて、カラオケにいくか」というのを無視し、自分の食器だけまとめて台所に引っ込んだ。

蛇口をひねり流れ落ちる水を見つめながら気を落ち着けようとするがうまくいかない。

それなのに、

「綾ちゃん、ゼリー買ってきたんだけど一緒に食べよう」と、友ちゃんは後ろからのん気な声で私を呼ぶ。私は、くるりと振り返り彼女に向かって手招きをする。そして、

「なーに?」と、彼女が台所に入ってくるとそっとドアを閉め、小声で訊いた。

「着替え持ってきたの?」

「持ってこないよ」

私の脳裏に、幼い頃、互いに手が出るほどの喧嘩となったいくつかの場面がうかんだが、それでも、言った。

「じゃあ、家で留守番していて」と。

しばしの沈黙。彼女にじっと見つめられ、私の心臓はどきどきと音をたてていた。しかし、小さく頷いてから彼女は言った。「わかった、Tシャツ貸してくれる」と。

 

髪は金髪でも、刺青にみえる蝶と丸いお腹がTシャツでかくれるとそれほどひどくはなくなったので、結局、三人で施設見学にいったのだが、夜には友達の出版記念パーティーに参加したのだろう義姉である彼女のあの格好は、しばらくの間、思い出すたびに私の気持ちを暗くした。