また開く花のように

4章

私の場合、強迫神経症のピークは高校三年、大学受験のとき。

夏の終わりまでバレーボールに明け暮れ、引退試合をベンチで終えてからの受験勉強。失敗したら浪人すればいいなんて柔軟な考え方はできなかったから、プレッシャーはもちろんあった。しかし、受験中は、落ちることを心配する余裕もないほど、自分が不正を行なってしまうのではないかという強迫観念にさいなまれつづけた。

試験会場に持ち込む消しゴムばかりか鉛筆の先にまでカンニングの文字が書かれているような気がして何度も削りなおし、試験がはじまれば他の人の答案を見てしまいそうな気がして、両目を明けていられない。

自分に見る気がなければ見るわけはない。そのあたりまえのことが全く通用しないほどの、見てしまうのでは、見てしまうにちがいないという不安という物凄いエネルギー。

自分が自分の意志に反して暴走してしまうのではないかという強迫観念は実に恐ろしいもの。

やがて、しんどさから逃げたくて、いっそ本当に他人の答案を見てしまってすべてを終わらせてしまおうかという思いが頭をよぎる。しかし、たとえそれがため息のようなものであったとしても、次の瞬間、私は深い絶望へと突き落とされることとなる。カンニングをするというのは、単なる妄想ではなく、実際に自分が考えていることとなってしまったのだから。

ただでさえ、のろくて、時間切れですべての問いに取り組めないことの多い私は、左目をさらに強く閉じて握りしめた左手を震わせながら、必死で答案用紙とむきあったものだった。

チャペルのある大学に通いはじめたときもピークに達した頭の混乱が尾を引いていて、自分は何かしらの不正を行ないここにいるのではないかという思いがぬぐいきれなかった。

それでも、六年ぶりの男女共学、規則というものがほとんどない大学という新しい世界はともかくまぶしかった。

ここにいてもいいのだと、ようやく思いはじめられたときのうれしかったことといったら。

他の新入生たちと一緒に、私もまずはサークル探しに没頭した。

しかし、テニス、ゴルフといったスポーツ系を選べぬものだから完全に出遅れ、結局、四年間通して一番の居場所は、所属学科の研究室となった。

 

別に一番入りやすそうだから選んだわけではない。何かしら自分を救ってくれるものがみつかるような気がして選んだ文学部キリスト教学科。けれど、六年間ミッションスクールに通いながらえられなかった信仰を、勉強してえようとしたのは間違いだった。

学ぼうという気は最初からおきなかった。

私が、ちょくちょく研究室に顔を出していたのは、ただただ初恋の人に会いたいからだった。

慣れぬ標準語を話そうとしたせいだったのだろう。「ここは、キリスト教学科一年の教室ですか?」英語の授業の前、上ずった声できかれたのが最初。

二浪してキリスト教学科というかわったところに入りながら、生活費と学費と飲み代を稼ぐためバイトに忙しかった彼。どこでもいいから大学にいきたかっただけじゃないかと思う人は多いだろうが、キリスト教に全く関心がないかといえばそうではなかった。

夫を亡くし、彼と知的障害のある彼の弟を連れ小さい島から長崎へと引っ越してきた母親は熱心なキリスト教徒で、小さいときから彼女に連れられ教会にいっていたという話をきいたことがある。

自分は信者ではないと言っていたが、私が例の理不尽な強迫観念から救ってほしい一心で、チャペルで行なわれている朝のミサに参加したとき、ふたつ前の席に彼が座っていて目をみはったことだってあった。祈っていたんじゃなくて眠っていたんだと言い訳していたが、思えば、あの背中に私は恋をしてしまったのかもしれない。

大学という自由な世界に飛び出し恋をして、蛹が蝶になるように私は変わった。

 

そう、書きたいところだが、そうはいかなかった。

 

強迫神経症の勢いを曲線で描けば、確かに大学への入学を機に下降しはじめるが、それはゆるやかで、いかにも病的な症状は消えても、いつか自分は、他人と自分の人生を終わらせてしまうような大きな過失を犯してしまうのではないかという強い恐れはしっかり残り、それを押さえ込むために相変わらず、かなりのエネルギーを注ぎ込まなくてはいけない。それも大きかったのだろう。入学したての頃は、初めてひとりでスカートを買いにいき、化粧だってしてみた。だが、長つづきせず、いつの間にか、ジーパンとTシャツ、お世辞にもセンスがいいとはいえぬ格好で通学するようになっていた。

おまけに天然パーマの髪はぼさぼさ。

彼のさわやかな笑顔やひきしまった体形や好感のもてる服装にひかれながらも、鏡がなければ見ることもできない自分の姿にはさっぱり関心がもてなかった。

お酒が好きで酔うと女の人をくどく癖のあった彼。時には本命にアタックしたこともあったのだろうが、私の場合は、間違いなく、場当たり的にちょっかいを出した女性のひとりでしかなかった。

しかし、恋愛初心者である私にそんなことがわかるはずはない。肌と肌とのふれあいにによって発病以来あじわったことがないほどの安堵感を得てしまった私は、ひたすら、彼と一緒にいられる時を待つようになった。

 

大学三年の夏休み、友ちゃんのお母さんの容態がよくないから一緒に見舞いにいこうと父母からさそわれたときも、私の頭は彼のことでいっぱいだった。

 

毎年夏の終わりに高層ビルの一フロワーで、福祉施設で生産された品々の販売会が行なわれていて、遠く九州からも彼の弟が入所した施設が参加していた。

「時間あったら手伝ってよ」一年生のとき彼からチラシを渡されたのをきっかけに、私もボランティアとして参加するようになり、三年生のときには準備段階から手伝うようになっていた。

いつだったか彼の弟も飛行機に乗って自分たちが作った野菜や石鹸などを売りにきていたが、知的障害者たちをさりげなくフォローし、一緒になって笑う彼の姿は、酔って私の目の前で他の子をくどく人とは別人のように輝いていた。

もちろんそんな彼がいたからなのだが、この一週間にわたる夏のお祭りは、サークルに入らなかった私が四年間で最も力を注いだイベントだった。

けれど、もし、おばさんの見舞いにいこうと誘われたのが、淡い恋心を抱いていた一年生のときや、彼も私を好いていてくれたのだと誤解し舞い上がっていた二年生のときだったなら、違っていたかもしれない。

でも、数年後には彼の奥さんとなるあの子が初めてボランティアとして参加した三年生のときだけは、かわいがってくれたおばさんのためであっても東京を離れるわけにはいかなかった。

忙しいという私を残して父母が日帰りで海の近くの病院まで出かけたのは、まだ、お祭りのはじまるまえ。準備委員会がおかれたとある福祉施設には、毎日のようにボランティアが集まり、ちらしの印刷やら備品の準備やらが行なわれていたが、私が一日休んだところで、何の支障もなかった。

ただ、バイトの忙しい彼が私のいないときにひょっこりあらわれ、彼氏がいると公言していたあの子をしつこく誘い、夜、飲みにいってしまったらなんて考えると気が狂いそうで、一日たりとも休むことができなかっだけなのだ。

おまけに、「綾がボランティアしているって言ったら、おばさん、えらいってほめていたぞ」という父から言われたその言葉に、私は、免罪符をもらったような気がしてしまったのだろう。

祭りが終わり、彼が九州に里帰りしてしまっても、すでにひとり暮らしをしていた兄が見舞いにいったときのおばさんの様態を報告するため家に電話をかけてきても、自分もひとりで見舞いにいこうという気にはならなかった。

そして、九月に入り女友だち三人と上高地へ三泊四日の旅行にいったときのこと。家に帰ると誰もいなくて、食卓の上に「おばさんが亡くなったので葬儀にいってきます」というメモが載っていた。

お土産を買いうかれて帰ってきた自分がさすがに恥ずかしくて、身体の力が抜け椅子にへたりこんだ。しかし、正直に言おう。同時に私は、父母と一緒に葬儀に行かずにすんだことにほっとしてもいた。

どこまでが病のせいかはわからないが、他の人より物事が複雑で難しく思えてしまう私にとって、靴、バッグにいたるまで黒で統一することからはじまる、慣れぬ葬儀への参列が重荷だったのも確か。そして、何度もクリスマスカードや年賀状をもらいながら返事を出さずにきた友ちゃんに会わずに済んだというのもほっとした理由のひとつだった。

兄が二浪した末、結局はあきらめた藝大に現役で入り、研究科に進んでいた友ちゃん。

数年前にはおばあさんも亡くなっているから、ひとりきりになってしまったはず。それでも、父などは、藝大の卒業制作展で彼女の絵を観て感激し、つい飲みすぎて駅の階段を踏み外し、駅員から家に電話がかかってきたほど。そんな彼らが行ったのだからいいじゃないか。今さら自分が行ったってかける言葉もありはしないと、私は私に言いきかせた。

窓に目をやると塀の上に見えるはずの友ちゃんたちの家がない。夕闇のせいかと思い目をこらしても、見えるのは空だけ。

確か、彼女たちが去って間もなく、「ママー、ママー」と、しょっちゅう大きな声で呼んでいた男の子の一家が引っ越してきたはずだが。けれど、記憶はそこで止まっていて、彼らも去り、思い出のつまったあの家が取り壊されてしまったのがいつなのか、私は、どうしても思い出すことができなかった。