また開く花のように

終章

 

父が、おじさんと友ちゃんの美術館をつくろうと言ったあの夏から三度目の春、今から二年前に、染野美術館はオープンした。

この地への建設が決まってから、「綾、マンション暮らしというのもなかなかお洒落でいいかもしれないな」と、言っていた父は、結局、取り壊しの決まったあの古い家で息をひきとった。しかし、最期を迎えた彼の目には完成した美術館の姿がはっきりと見えていたようで、顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。

そして、父が亡くなり、ひとり新しい地での生活をスタートさせなくてはいけなくなるはずだった私のそばには、幸いにも、ひとりの男性がいてくれた。

みんなで飲んで騒ぐのが好きだった父が職場ではかなり高い評価を受けていたときいても、なかなか信じられなかった私だが、美術館を設立する同士として彼と行動を共にした半年の間に、彼のすごさを初めて知った。

父と兄と私、たとえ、奇跡的に三人で美術館をオープンさせられたとしても、長く維持していくことは難しい。

友ちゃんを愛する人たちの熱い思いもさることながら、父の声かけで、一回目の準備委員会に参加するため、頼もしい人たちがぞくぞくと我が家に集まってきたのには驚かされた。

その中に、今、一緒に生活している彼もいたのだが、会ったとたんに、ああ、もしかしたらこの人と人生の後半を歩いていくことになるかもしれないと思った。と、格好よく書きたいところだが、実際は違っていて、ベルが鳴り、玄関に出ていき、ドアを開け彼の顔を見たとたんに、私は声にならない悲鳴をあげてしまった。

そう、あれは二十代半ば、自然食品店でバイトしていたときのこと。「いい奴がいるから一度話をしてみろよ」、と、父に言われ、ついに運命の人が現れたかと舞い上がり、私は彼が家に来る日を待ちに待った。しかし、現れた男性の「どーもー」というお笑い芸人のような陽気な挨拶に圧倒され、イメージとのギャップに深く傷つき五分と経たずに自分の部屋に引きこもり、ベッドの上で、泣きながら眠ってしまった。

父が何と言って彼を我が家に誘ったのかはわからなかったが、力のこもった挨拶は私を意識したからのようにも思えたし、たとえ、何も聞かされていなかったとしても私の不機嫌さは伝わったにちがいない。そんなこんなで、あの一件は、謙虚さを覚えていくにつれ苦い思い出となっていった。しかし、あまりにもインパクトが強すぎたため、ああ、惜しいことをした、彼にもう一度会いたいと思うこともなかったし、まさか再会する日がこようとは夢にも思っていなかった。

それなのに、記念すべき第一回目の美術館設立準備委員が行なわれたあの日、最初に我が家のベルを鳴らした人物が彼だったのだから、人生というのは、思わぬところにサプライズが用意されているものだ。

あの時の陽気すぎる挨拶は、私のことを聞いていて意識しすぎたせいだと本人もいっていたが、彼は父のように明るい人で、その明るさと優しさは、今の私にとっては、昔あこがれた格好良さや男の色気よりも、ずっとずっと有難い。

美術館をつくるための活動をはじめて間もなく郵便局のバイトまで辞めてしまい無職となった私だが、現在は、染野美術館と、もう一ヶ所、ある施設で働いている。そこには、強迫神経症のような病だけではなく、強すぎる恐れや不安といった、長いこと、一生抱えて生きていくしかないと思い込んできたものを手放すため、日々多くの人たちが集まってきている。

あくまで、ひとつの手法として過度に期待することなく受けられる人にかぎるのだが、催眠による前世療法も少しずつ実績を積んでいるし、私などは、抑圧された感情や筋肉の緊張として滞ってしまったエネルギーをボディーワークによって解放させ、その人のフィールドを広げていくお手伝いをさせてもらっている。

自分が長いこと抱いてきたもっと楽になりたいという夢を他の人が叶えるお手伝いをできることは、本当にうれしいことだし、日々充実している。

しかし、幸せの形を決めつけていた若い日の私にしてみれば、子供を持たない今は、なんとしても避けたい未来かもしれない。

友ちゃんじゃないけど、頭の周りが思い込みのもやもやでいっぱいだった若き日の私に説教をするつもりはないが、もし、私のように、自分なんて……と、思い込んでしまった人がいたとしたら、ぜひ染野美術館に来て、彼らの絵の前に立ってみてほしい。

そして、「あなたはあなた、人と比べることなんて何にもないんだよ」という、何があっても変わらなかった彼女の声にも耳をすませてみてほしい。


有難うございました