また開く花のように

6章

人は生まれ変わる。それを、確信するには、本の主人公のように、自分の前世を自分で思い出すのが一番。

しかし、これだけ完璧に忘れているものをそう簡単に思い出せるとは思えない。だから私は、彼のように、特別な能力を持つ人に自分の前世を教えてもらいたかった。

でも、時はまだ早かったのだろう。そういう人がいるという情報どころか、今なら精神世界と書かれたコーナーにずらりと並んでいるような本一冊、本屋で探すのも大変だった。

心の広い店長とて、たったひとりのバイトである私をフォローするのは大変だったにちがいない。ふたりの関係がぎくしゃくするのにそう時間はかからず、彼に相談できなくなったとき助けてくれたのは父だった。

ある日曜日のこと、

「ひどいこと言うな……」

「そんなことあるわけないじゃないか」

「気にしちゃ駄目だからな」懸命に相手を励ましてから受話器を置いた父が、食卓につくなり失笑した。娘の私よりずっと人の話を真剣にきく父としては珍しいこと。

「どうしたの?」と、問うと、

「いや、春子がな」と、自分の妹の名を言い、今度は声をあげて笑った。

帽子作りを仕事とする独身の春子叔母さんはとてもユニークな人。小さな身体には不釣合いなほどつばの広い帽子をかぶり、口をぎゅっと横に広げ姪の私にも大袈裟なほどの笑みをつくってくれる人。我が家の門が開けられず、歩道から、「たっちゃん、典子さん」と、父母の名をドラマの主人公にでもなったように大きな声で呼びつづけていたときのことを思い出しても可笑しくて、こちらも笑いながら、

「春子おばさんがどうしたの?」と、父をせかした。

「いやな、道で呼びとめられて占い師にみてもらったらしいんだがな、」

「うん」

「『あなたの来世は犬でしょう』って、言われたっていうんだよ」

「犬?!」

「ああ、おまけにな、『今生はろくなことがないでしょう』とも言われたらしい」

「そんなこと言う占い師がいるの?」

「まったくな、春子はどうしてそんな占い師を引き寄せてしまうんだろうな」

「おばさん、気にしちゃってるの?」

「電話かけてくるぐらいだからな。でもな、あいつは大丈夫だ。明日になったら忘れているんじゃないかな」

「そうなの?」

「ああ、占い師というのも宗教の勧誘だったかもしれないが、あいつには、死後の世界とか来世だとかいうものは必要ないんだろうな。友ちゃんの個展にいって感化されたらしく、油絵を習いはじめたと言っていたが、今がよほど充実しているのだろう」

「ふーん。ねぇ、お父さんは、自分が死んだらどうなるか考えたことない?」

「特に若いときは考えたさ、時代が時代だったからな。自分自身、戦場では何度も死を意識したし、死んでいった人たちがあの苦しみから解放されているのか気になって仕方なかったときもあるしな」そう言うと、立ち上がり食器棚からコップを出し、父は私にビールをついでくれた。その光景を覚えているのは、初めてきく彼の話にどきりとしたからなのだろう。しかし、自分のことでいっぱいいっぱいだった私は、ビールを勢いよく飲んでから質問した。

「ねぇ、犬になるかどうかはともかく、魂の生まれ変わりってどう思う?」

「ああ、女優のシャーリー・マクレーンも、霊媒師に自分の前世について教えてもらったときのことを書いていたな。『アウト・オン・ア・リム』という本だったと思うが……」

「その本、持っているの?」

「ああ」

「貸して! 実はさ、私も自分の前世を知りたいんだ」

「あはは、やめとけ、やめとけ。もし、極悪人だったことでも思い出したらどうするんだ?」

あの日から、父は精神世界に関する面白そうな本をみつけると、わざわざ買ってきてくれるようになった。

「おもえは宗教に対する免疫があるから、春子があった占い師のようなやつらにひっかかることもないだろう。最近はな、あの世が近くなったせいか、父さん、死んでいった人たちに守られているような気がするんだ。目に見えない世界を探求することで、この世で生きていくのが少しでも楽になるならいいよな」いつだったかそう言っていた父は、病が最もひどかったときから、実に忍耐強く私を見守ってくれた。もしかしたら思い当たるところがあったのかもしれない母が、いつまでも続く強迫行為に苛立ちヒステリックな声をあげ後にひどく落ち込んだときにも、場を和ませてくれたのは彼だった。

だから、前世を思い出したいと言ったとき、「極悪人だったことでも思い出したらどうするんだ?」と、言ったのも全くの冗談であることはよくわかった。

それでも、人の命を奪ってしまうのではという理不尽で激しい恐怖心が前世の記憶からきているのではないかと感じていた私は、一緒に笑えなかった。

たとえ、今生のことではないにしろ、自分が最も恐れている罪をすでに犯してしまっていることを知ったなら、対処できるかどうかわからない。

それでも、それでも私は、自分の前世を知り生まれ変わりというものを、どうしても確信したかった。

 

先に書いてしまうが、霊能力者といわれる人に会い自分の前世を教えてもらいたいというあの時の願いだけは、私にとっては珍しく叶うには叶った。だが、叶ったのは、あの本を読んでから五年が経ってからのことで、その間にもいろんなことがあった。

 

あの本に出会い、精神世界に目覚め、自分も恐れを手放せるような気がしたというのに、時給にすれば七百円にみたない自然食品店のバイトに神経をすりへらす日々には、なんの変化も起きない。

そんな私が心待ちしたのは、前世でも縁のあった運命の人との出会い。

さすがに、辞めてまた新しいバイトを探せばいいと軽く考えることはできなくなっていたから、まだ見ぬ彼への期待も日に日に高まっていく。毎夜毎夜、どこかに生まれ変わっているはずの相手に、私はここにいますとテレパシーを送りつづけるほどの真剣さ。

そんな時、父が、「染野さんの絵画教室に来ていた田中、覚えているだろう? あいつのの紹介で会ったんだけどな、いい奴がいるんだよ。綾、家に連れてくるから一度話をしてみろよ」と、言い出した。親の紹介というのは、後々面倒になりそうだから避けてきたが、あの時ばかりは、ついに運命の人が現れたかとかなり期待してしまった。しかし、勝手にイメージを膨らませすぎたのがいけなかったのだろう。

「どーもー」と陽気なお笑い芸人のような丸い顔の男性にあまりにも元気よく挨拶されたとき、頭を殴られたようなショックを受け、父に裏切られたという怒りと悲しみがめらめらと湧いてきてしまったのだ。私は、五分も経たずに自分の部屋に引っ込み、ベッドの上で、泣きながら眠ってしまった。

自分のことは棚の上に放り上げて、なんとも失礼な話。それでも、極端に視野の狭くなっていた私は反省しなかった。

数ヵ月後、「ねぇ、会わせたい人がいるんだけど」と、友達から言われたときも、今度こそ、今度こそ運命の人だと自分に言いきかせた。

幸いと言っていいのかどうかはわからないが、父に紹介された人ほど個性が強くなかったため、会って疑問が生じることもなく期待は確信に変わった。「いい加減にしてください」と、言われ、ひとりで舞い上がっていただけと気づいたのは、店長にバイトを辞めると告げ、父母から一人暮らしをする許可をえて、彼が住む町のスーパーの就職試験を受けにいこうとしていたときのこと。

おそらく父と母で話し合ったのだろう。何も言われず家には居つづけられたが、店長への言葉は撤回できず、再び二年と持たずにバイトを辞めた。

 

やっぱり自分は駄目だ。働く自信と気力を失った私を救ってくれたのは、「綾、おまえは福祉の仕事をするつもりはないのか?」という父の言葉。

失恋とともにボランティアのボの字も忘れさり、父には「あんまり」と、答えたというのに、日が経つにつれ、やってみようかな、やろうよ、それしかないよ、と、変わっていったのだから人間というのは結構調子のいいもの。

二十七才の春から、私は知的障害者の通所施設で正規職員として働きはじめた。

景気がよかったから給料の安い福祉業界は人手不足だったわけだが、それまでのアルバイトに比べればずっと待遇もよかったし、友ちゃんの家と同じく、パンやクッキーを焼くにおいが満ち、皆が描いた伸びやかな絵が壁に並ぶ新しい職場は時の流れがゆっくりで、私にとってとても居心地がよかった。

数年後、再び霊能者に前世をみてもらいたいと思うようになったのは、ここでも問題が起きてきてしまったからなのだが、その話に飛ぶまえに、あのことを書かないわけにはいかないだろう。